隠岐・知夫里島自然と歴史

知夫里の自然

名勝「赤壁」牧畑の歴史に触れる

 隠岐島諸島は、島根県北東の日本海沖に浮かぶ4つの島と180余りの小島からなり、島根半島沖合約40~80㎞に位置しています。隠岐諸島中最南端に位置する知夫里島は本土に最も近く約40㎞沖合に位置している面積13,69㎞、周囲127㎞の一島一村の島です。地形は東西に細長く、西端に位置する赤ハゲ山325mから松尾山179m、大峰153m経て東の高平山149mまでの間に山が連なり、一般に急峻で、僅かに中央南部がゆるやかな分水線を形成しており、分水線を境に北側は島前湾に向かって急傾斜をなし、単純な海岸線が続いています。南側は外海に向かって比較的緩やかな傾斜をなし、点在する島は隠岐の島にあって瀬戸内海的な女性的な美しさを見せてくれます。気候は、対馬暖流の影響を受けて海洋性気候で比較的温和で、風は山陰海岸より強いが降水量、積雪量は少ない。観光名所である赤ハゲ山は、360度の大パノラマの展望を楽しむことができ、約600万年前に形成された島前カルデラのもっとも美しい景色を望むことができます。牧畑を活用した牛の放牧風景と合わせて牧歌的風情をかもしだしお訪れる人を魅了してます。昭和10年に地質部門で国の天然記念物に指定された名勝「赤壁」のざっくりとえぐられた深紅の岩肌は、火山の噴火により形成されたもので海に立ちはだかり、断崖にそそり立つ断面は見る人を圧巻してます。

 島津島の海岸の崖では、生き物たちが棲んでいた巣穴や、生物が砂の中を掘り進んで遺した痕跡である生痕化石を遊歩道を歩きながら見ることができます。

 牧畑は、830年前の鎌倉時代の「吾妻鏡」に当時の隠岐の牧畑が掲載されていることからも知夫里島も牧畑を営まれていることがうかがわれます。昭和40年代には終了しましたがその後は島全体を4つの牧にわけて牛の放牧を行っており美しい草原景観が保たれています。

 古い歴史と人の営みとして今でも牧畑が活用されていることより「世界農業遺産」登録を現在目指しています。

 知夫村の独自の生態系としては、オキタンポポ、オキノアザミ、オキノアブラギク、オキシャクナゲの隠岐しか見られない植物や南方系のナゴラン、北方系のハマナス等の高山性、大陸系が共存する不思議な光景が見られ植物の進化の過程を見る上ではとても貴重な島であると言われています。海では、インド洋などの亜熱帯にいるクロギツタの海藻や浅島では深さ1mのところでサンゴを見ることが出来ます。

※お遊び=赤ハゲ山全体が玄武岩で覆われており名垣にある石に磁石を近づけると石に引付きますよ。玄武岩は磁気を帯びているので玄武岩かどうか分かります。また、玄武岩の中には岩がスポンジ状になっているものもあり、雨を通して地下に水が溜まることでアカハゲ山頂からも水が湧き出ていて淡水レンズの作用と言われています。知夫が湧水の島として言われる由縁ですね。

名勝赤壁

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知夫里の歴史。

神話と歴史の島

 知夫里島には、赤壁のすぐ近くにある猫が岩屋古墳をはじめ古墳時代からの古墳が数多くみられ古い時代から人が住んでいたことが分かります。
 知夫村の地名は、島津島に道路の神様すなわち「道触の神:ミチブルのカミ」が祀られた神社があったことよりつけられたと言われています。紀貫之が土佐国から宮に帰るまでの道中日記である「土佐日記」に

 わたつみの 道触の神に 手向する ぬさの追い風 止まず吹かなん 

と詠われています。

陰陽道と隠岐

隠岐は、陰陽道の思想では京都より北西の方角にあり縁起の良い地とされてたことや、島には生活に困らない食の豊かさと黒曜石による高い文化を持ち合わせていたという好条件で、天皇をはじめ皇族、神官、貴族の遠流の地となっていました。
当時、隠岐のアワビが天皇の即位式の供え物や高級役人(現在の大臣クラス)のボーナスになっていたことが、平安時代に編纂された「延喜式」に書かれています。そうしたことより、知夫里島も鎌倉幕府の立役者と言われている文覚上人や後亀山天皇の皇孫の小倉宮教尊親王、小野尊俊をはじめ松養寺のある松尾山周辺には沢山の位が高いとされる五輪塔の墓所を見ることができます。いずれの方々も念力に優れていると言われ知夫里島は、念力スポットの島とも言われています。1332年に隠岐配流の身となった後醍醐天皇、は最初に知夫の仁夫浜に上陸し赤ハゲ山にある仁夫里坊、古海坊にご宿泊されました。現在は当時の場所に石碑が置かれています。ご宿泊された後醍醐天皇は、西ノ島の黒木御所に移りられ脱出されるときも知夫村から建武の新政で活躍をされました。現在、当時古海坊であった松養寺には、後醍醐天皇からご寄進された「松養寺地蔵菩薩立像」が安置されています。

江戸中期の貿易と隠岐

江戸時代中期より明治初期まで続いた河村瑞賢による北前船による日本海貿易は、多い年には4,000隻の船が隠岐に滞在していたと言われ中でも、古海地区では帆船を持ち貿易をしていたと言われています。隠岐民謡の代表である「どっさり節」は知夫が発祥の地で北前船が運んできた知夫のお松という女性と北前船の船頭との恋歌と言われています。北前船は、日本全国の商品や文化を知夫里島に運んできたようです。現在は、取り壊されて無くなりましたが、京都風の家屋も知夫で見られました。また、旧暦の8月5日に行われる「皆一踊り」があります。数人で円陣を作り中央に胴打ちがいて、胴の音に合わせて扇子 本で踊る素朴な踊りがある。鎌倉時代から伝わる踊りであると言われているが定かでないとされています。

※お遊び=「くだらない」という言葉の意味は、日本海貿易時代には大阪から松前までの航路を「くだり」と呼んでいました。大阪から松前までの貿易の品は、大阪のご婦人方の袖を1回しか通したことのないような古着が貿易の商品とされました。そういうところから良い商品を「くだり」の商品とし、悪い商品を「くだらない」商品と呼んだことが始まりとされています。

蘇民将来末社小神符

 全国でも珍しい伝承文化が残されています。古海地区の「蘇民将来符」は古代人の精神生活の一端を彷彿させる風習で、毎年、正月の日待の日に「蘇民将来末社小神」と書いた長さ30㎝の先端を尖らせた柳の木の枝を疫病等が入ってこないように地区の入口の道にさして歩きます。多沢では、大般若経の経典600巻が多沢のお堂に収納され毎年夏季に転読の行事が行われています。
 隠岐には、大小合わせて150社以上の神社があり、その中には1,000年以上も前の文献に載っているものが大社と小社併せて16社あり、出雲大社級と同じ位の神社が4社あります。知夫村の仁夫地区の大山神社と郡地区にある天佐志比古命神社は小社として数えられています。

 この他年中行事として、四国88か所のお大師参りのミニュチュア版と言える風習が毎年、旧暦の3月21日に行われ島内の神社、お堂、地蔵尊を巡拝します。知夫村には伝承文化やお盆の花火大会、サザエのつかみ取りなどのイベントもあり、今後の益々の魅力アップで村の活性化が発揮される地域として期待を寄せられています。